源 頼朝 義経

発行者: 07.12.2020

そして義経の兵略と声望が法皇の信用を高め、武士達の人心を集めることは、武家政権の確立を目指す頼朝にとって脅威となるものであった [19] 。義経は壇ノ浦からの凱旋後、かつて平氏が院政の軍事的支柱として独占してきた院御厩司に補任され、平氏の捕虜である 平時忠 の娘( 蕨姫 )を娶った。かつての平氏の伝統的地位を、義経が継承しようとした、あるいは後白河院が継承させようとした動きは、頼朝が容認出来るものではなかったのである。. 名前空間 ページ ノート. 案内メニュー 個人用ツール ログインしていません トーク 投稿記録 アカウント作成 ログイン.

その後、以仁王(もちひとおう)の 令旨(りょうじ) を受け頼朝が挙兵すると、義経は兄頼朝のもとへはせ参じます。ここから、義経の軍事の天才としての大活躍が始まります。. 義経は 郎党 や愛妾の 白拍子 ・ 静御前 を連れて 吉野 に身を隠したが、ここでも追討を受けて静御前が捕らえられた。逃れた義経は反鎌倉の 貴族 ・ 寺社勢力 [注釈 21] に匿われ京都周辺に潜伏するが、翌年の 文治 2年( 年 )5月に 和泉国 で叔父・行家が鎌倉方に討ち取られ、同年6月には、 源有綱 も 大和国 で討ち取られた。また各地に潜伏していた義経の郎党達( 佐藤忠信 、 伊勢義盛 等)も次々と発見され殺害された。さらに義経に娘を嫁がせていた 河越重頼 も、頼朝の命令で所領没収の後に殺害された。そうした中、諱を義経から義行に改名させられ [22] 、さらに義顕と改名させられた [23] 。何れも源頼朝の意向により、朝廷側からの沙汰であり、当の義経本人がこのことを認知していたか否かは不明である。そして院や貴族が義経を逃がしていることを疑う頼朝は、同年11月に「京都側が義経に味方するならば大軍を送る」と恫喝している。京都に居られなくなった義経は、 藤原秀衡 を頼って奥州へ赴く。『 吾妻鏡 』 文治 3年( 年 ) 2月10日 の記録によると、義経は追捕の網をかいくぐり、伊勢・ 美濃 を経て奥州へ向かい、正妻と子らを伴って平泉に身を寄せた。一行は山伏と稚児の姿に身をやつしていたという。.

その最期は世上多くの人の同情を引き、 判官贔屓 (ほうがんびいき [注釈 3] )という言葉を始め、多くの伝説、物語を生んだ [3] 。. 義経に対する人気は高く、代表的な軍記物語である『義経記』が死後年経ってから編纂されるほどであり、義経もしくは主従を題材とした「義経物」「判官物」と呼ばれる一ジャンルを築いた [3] 。 謡曲 では30余曲、 幸若舞 では19曲の「判官物」がある [38] 。またあまりに人気があったために義経と関係ない演目でも「現れ出たる義経公」という語りとともに義経が登場し、「さしたる用もなかりせば」との語りとともにただ引っ込むという演出も行われていた [3] 。.

菱沼一憲 ( 国立歴史民俗博物館 科研協力員)は著書で以下の説を述べている [11] 。.

4 817 [ 8]. BS-TBS   10 .

平安時代末期。「貴族の世」から「武士の世」へと移り変わる時代の転換期。武士の二大勢力、「平家」と「源氏」は覇権を争い、「平治(へいじ)の乱」が勃発した。戦いは、清盛率いる平家が勝利し、源氏の大将・義朝(よしとも)は命を落とした。当時13歳だった義朝(よしとも)の三男は伊豆・蛭ヶ小島(ひるがこじま)へ流刑に処され。腹違いで2歳の弟は、母が清盛の妾となる事で命を救われる。成長した二人は、打倒平家に立ち上がる。源氏の棟梁(とうりょう)であり、鎌倉幕府を創設した天才政治家。源頼朝。その兄を助け、奇抜な戦略で次々と平家を打ち破った戦の天才。源義経。二人は共に力を合わせ、平家と戦った。が…連戦連勝し、得意になった義経は、棟梁である頼朝の許可なく、勝手に朝廷(ちょうてい)から官位(かんい)をもらってしまう。亀裂が入る二人の仲…義経の活躍で、ついに平家を滅ぼした源氏軍。そして…頼朝は、武家政権設立のため、義経に対して重い決断をする。追いつめられた義経は兄の誤解を解こうと、一通の手紙を出す。しかし、その思いは頼朝には届かず、ついに兄弟は互いを殺しあう「ライバル」となってしまう。武家政権の設立を目指す兄と。非凡な才能をもった軍事家である弟。血を分けあう兄弟は なぜ憎みあったのか?. 下野国の御家人、 中村朝定 は義経の遺児であったという伝承がある。 栃木県 真岡市 にある 遍照寺 真岡市 の古寺誌によると「 藤原秀衡 の命を受けた 常陸坊海尊 は源義経の子経若 常陸入道念西 ( 伊達朝宗 )に託し、後に朝定と名乗った」 [31] [32] との伝承がある。また、 青森県 弘前市 新寺町の圓明寺(円明寺)の縁起に「千歳丸のちの経若丸は義経の子であり、千歳丸を 常陸坊海尊 に託し、 常陸介念西 に預け後に養子にした。その後は行方知れず」 [33] との伝承もある。朝定の一族 中村氏 は現在まで存続している。.
  • 元暦 2年(年) 4月15日 、頼朝は内挙を得ずに朝廷から任官を受けた関東の武士らに対し、任官を罵り、 京 での勤仕を命じ、東国への帰還を禁じた。また 4月21日 、平氏追討で 侍所 所司として義経の補佐を務めた 梶原景時 から、「義経はしきりに追討の功を自身一人の物としている」と記した書状 [注釈 14] が頼朝に届いた。.
  • 元暦 2年(年) 4月15日 、頼朝は内挙を得ずに朝廷から任官を受けた関東の武士らに対し、任官を罵り、 京 での勤仕を命じ、東国への帰還を禁じた。また 4月21日 、平氏追討で 侍所 所司として義経の補佐を務めた 梶原景時 から、「義経はしきりに追討の功を自身一人の物としている」と記した書状 [注釈 14] が頼朝に届いた。.

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カテゴリ : 源義経 平安時代の武士 鎌倉時代の武士 切腹した人物 日本の神 人物神 源氏 年生 年没. アジアポータル 日本ポータル 歴史ポータル 戦争ポータル 教育ポータル 人物伝ポータル. この時期、義経と泰衡の間にどのような駆け引き、葛藤があったのかは今となっては知る由もない。しかし結果として泰衡は再三の鎌倉の圧力に屈して、「義経の指図を仰げ」という父の遺言を破り、 閏 4月30日 、騎の兵をもって10数騎の義経主従を 藤原基成 の 衣川館 に襲った( 衣川の戦い )。義経の郎党たちは防戦したが、ことごとく討たれた。館を平泉の兵に囲まれた義経は、一切戦うことをせず持仏堂に籠り、まず正妻の郷御前と4歳の女子を殺害した後、自害して果てた。 享年 31であった。. その後、以仁王(もちひとおう)の 令旨(りょうじ) を受け頼朝が挙兵すると、義経は兄頼朝のもとへはせ参じます。ここから、義経の軍事の天才としての大活躍が始まります。.

菱沼一憲 ( 国立歴史民俗博物館 科研協力員)は著書で以下の説を述べている [11] 。. 悲しき兄弟の物語 平安時代末期。「貴族の世」から「武士の世」へと移り変わる時代の転換期。武士の二大勢力、「平家」と「源氏」は覇権を争い、「平治(へいじ)の乱」が勃発した。戦いは、清盛率いる平家が勝利し、源氏の大将・義朝(よしとも)は命を落とした。当時13歳だった義朝(よしとも)の三男は伊豆・蛭ヶ小島(ひるがこじま)へ流刑に処され。腹違いで2歳の弟は、母が清盛の妾となる事で命を救われる。成長した二人は、打倒平家に立ち上がる。源氏の棟梁(とうりょう)であり、鎌倉幕府を創設した天才政治家。源頼朝。その兄を助け、奇抜な戦略で次々と平家を打ち破った戦の天才。源義経。二人は共に力を合わせ、平家と戦った。が…連戦連勝し、得意になった義経は、棟梁である頼朝の許可なく、勝手に朝廷(ちょうてい)から官位(かんい)をもらってしまう。亀裂が入る二人の仲…義経の活躍で、ついに平家を滅ぼした源氏軍。そして…頼朝は、武家政権設立のため、義経に対して重い決断をする。追いつめられた義経は兄の誤解を解こうと、一通の手紙を出す。しかし、その思いは頼朝には届かず、ついに兄弟は互いを殺しあう「ライバル」となってしまう。武家政権の設立を目指す兄と。非凡な才能をもった軍事家である弟。血を分けあう兄弟は なぜ憎みあったのか?.

  • 河内源氏の 源義朝 の九男として生まれ、 幼名 を 牛若丸 ( うしわかまる ) と呼ばれた。 平治の乱 で父が敗死したことにより 鞍馬寺 に預けられるが、後に 平泉 へ下り、 奥州藤原氏 の当主・ 藤原秀衡 の庇護を受ける。兄・頼朝が 平氏 打倒の兵を挙げる( 治承・寿永の乱 )とそれに馳せ参じ、 一ノ谷 ・ 屋島 ・ 壇ノ浦 の合戦を経て平氏を滅ぼし、最大の功労者となった。その後、頼朝の許可を得ることなく官位を受けたことや、平氏との戦いにおける独断専行によって怒りを買い、このことに対し自立の動きを見せたため、頼朝と対立し 朝敵 とされた。全国に捕縛の命が伝わると難を逃れ再び藤原秀衡を頼った。しかし、秀衡の死後、頼朝の追及を受けた当主・ 藤原泰衡 に攻められ、現在の 岩手県 平泉町 にある 衣川館 で自刃した。. 兄弟の出会いから4ヶ月後の、治承(じしょう)5年閏(うるう)2月。宿敵、平清盛が64歳で亡くなる。急激に力を弱めた平家は、幼い安徳(あんとく)天皇と共に都を離れ、福原(ふくはら)を本拠地とした。寿永(じゅえい)3年2月。頼朝は7万の兵をもってその福原を攻めた。「一の谷の戦い」である。源氏に勝利をもたらした義経は意気揚々と京都に凱旋(がいせん)。が、頼朝は、武功(ぶこう)を称えるどころか何の恩賞も与えなかった。全国の武士を束ねる立場にあり、秩序を重んじた頼朝は、2万の兵を置き去りにし単独行動をとった義経を許せなかったのだ。ところが、都の人々は違った。大功(たいこう)を立てた、義経の名は瞬く間に世に広がり、人気は沸騰。すると、この義経の人気に目をつけた人物がいた。朝廷の最大権力者、後白河法皇である。後白河は、義経に平家追討(ついとう)の褒賞(ほうしょう)として、検非違使(けびいし)という官職を与えた。頼朝が認めなかった義経の勲功(くんこう)を、後白河が評価したのだ。だが…この報せを聞いた頼朝は激怒。義経を平家追討(ついとう)軍から外してしまう。しかしその半年後。平家討伐(とうばつ)がいっこうに進まない状況に業を煮やした頼朝は、再び義経を前線へと送る。「屋島(やしま)の戦い」である。ここでも義経の独断専行(どくだんせんこう)は源氏に勝利をもたらしたのだった。ひと月後、ついに源平最後の決戦、「壇ノ浦(だんのうら)の戦い」をむかえる。数では優っていた源氏軍だが、海上での戦いが不得意なため苦戦。しかし、形勢は一気に逆転。源氏の勝利は決定的となり、平清盛の妻 時子(ときこ)は、幼い安徳(あんとく)天皇と共に海に身を投げた。こうして、長きに渡って続いた源平合戦は、源氏の勝利で幕を閉じたのだった。ところが、平家を滅ぼした義経は、最後の最後に重大なミスをおかし、頼朝の怒りをかってしまう。頼朝がどうしても平家から取り戻したかった三種の神器も一緒に海の底へと消えて行った。.
  • 清和源氏 の流れを汲む 河内源氏 の 源義朝 の九男として生まれ、 牛若丸 と名付けられる。母・ 常盤御前 は 九条院 の 雑仕女 であった。父は 平治 元年( 年 )の 平治の乱 で謀反人となり敗死する。その係累の難を避けるため、 数え年 2歳の牛若は母の腕に抱かれて2人の同母兄・ 今若 と 乙若 と共に逃亡し 大和国 ( 奈良県 )へ逃れる。その後、常盤は都に戻り、今若と乙若は出家して僧として生きることになる [注釈 5] 。.

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なぜ源頼朝・源義経兄弟の間に確執がうまれたのか?

優れた軍才を持ちながら非業の死に終わった義経の生涯は、人々の同情を呼び、このような心情を指して 判官贔屓 というようになった。また、義経の生涯は英雄視されて語られるようになり、次第に架空の物語や伝説が次々と付加され、史実とは大きくかけ離れた義経像が形成された。. 義経に対する人気は高く、代表的な軍記物語である『義経記』が死後年経ってから編纂されるほどであり、義経もしくは主従を題材とした「義経物」「判官物」と呼ばれる一ジャンルを築いた [3] 。 謡曲 では30余曲、 幸若舞 では19曲の「判官物」がある [38] 。またあまりに人気があったために義経と関係ない演目でも「現れ出たる義経公」という語りとともに義経が登場し、「さしたる用もなかりせば」との語りとともにただ引っ込むという演出も行われていた [3] 。.

範頼も九州へ渡ることに成功し、最後の拠点である 長門国 彦島 に拠る平氏の背後を遮断した。義経は水軍を編成して彦島に向かい、 3月24日 (西暦4月)の 壇ノ浦の戦い で勝利して、ついに平氏を滅ぼした [注釈 13] 。 宿願を果たした義経は法皇から戦勝を讃える 勅使 を受け、一ノ谷、屋島以上の大功を成した立役者として、平氏から取り戻した 鏡 璽 を奉じて 4月24日 京都に凱旋する。. 典拠管理 WorldCat Identities BNF : cb データ GND : X ISNI : LCCN : n NDL : SUDOC : VIAF :

69 [ 18] 816 9. [ 12] 2 23. 22 [ 5]. cm [28] .

源頼朝ってどんな性格だった?

アジアポータル 日本ポータル 歴史ポータル 戦争ポータル 教育ポータル 人物伝ポータル. 大正 に入り、 アメリカ に学び 牧師 となっていた 小谷部全一郎 は、北海道に移住してアイヌ問題に取り組んでいたが、アイヌの人々が信仰する文化の神・ オキクルミ の正体は義経であるという話を聞き、義経北行伝説の真相を明かすために大陸に渡って 満州 ・ モンゴル を旅行した。彼はこの調査で義経がチンギス・カンであったことを確信し、 大正 13年( 年 )に著書『成吉思汗ハ源義經也』を出版した。この本は判官贔屓の民衆の心を掴んで大ベストセラーとなる。現代の日本で義経=ジンギスカン説が知られているのは、この本がベストセラーになったことによるものである。.

清和源氏 為義 流( 河内源氏 ). この伝説の萌芽もやはり日本人の目が北方に向き始めた江戸時代にある。 清 の 乾隆帝 の御文の中に「朕の先祖の姓は源、名は義経という。その祖は 清和 から出たので国号を清としたのだ」と書いてあった、あるいは 12世紀 に栄えた 金 の将軍に源義経というものがいたという噂が流布している。これらの噂は、江戸時代初期に 沢田源内 が発行した『金史別本』の日本語訳が発端である [注釈 28] 。.

まずは、一の谷の合戦です。木曽義仲(頼朝・義経の従兄弟、一旦京に入るも、その後頼朝軍に攻められ討ち死)に京を追われた平家軍は福原(神戸市)に本拠を構え、一の谷(神戸市須磨区須磨浦)に陣を張っていました。この地は、前面に砂浜が広がっており、後ろは急斜面の山がせまっており、天然の要害でした。対する源氏側の武将は、義経と範頼で、軍目付として梶原景時がいました。義経の戦法は、騎兵集団による奇襲でした。敵に気づかれぬように山側に回り込み、騎馬隊で一気に駆け下り敵の背後をつく戦法です。奇襲とはそもそも敵に気づかれずに不意打ちするから奇襲といえます。そのためには、とにかく敵に気取られぬうちに迅速に行動することが肝要でした。そして、この作戦は当たったのです。平家軍は、総帥の平宗盛が安徳天皇と 三種の神器 を持って、水軍とともに西へ敗走するしかありませんでした。この戦いののち、紀伊熊野水軍と伊予河野水軍が源氏の味方となり、源氏にも海軍力が整備されました。この事が、後の戦いを源氏有利に導くことになります。.

22319 [ 4]. [24] [ 25] 3 3210 4 [27] .

河内源氏の 源義朝 の九男として生まれ、 幼名 を 牛若丸 ( うしわかまる ) と呼ばれた。 平治の乱 で父が敗死したことにより 鞍馬寺 に預けられるが、後に 平泉 へ下り、 奥州藤原氏 の当主・ 藤原秀衡 の庇護を受ける。兄・頼朝が 平氏 打倒の兵を挙げる( 治承・寿永の乱 )とそれに馳せ参じ、 一ノ谷 ・ 屋島 ・ 壇ノ浦 の合戦を経て平氏を滅ぼし、最大の功労者となった。その後、頼朝の許可を得ることなく官位を受けたことや、平氏との戦いにおける独断専行によって怒りを買い、このことに対し自立の動きを見せたため、頼朝と対立し 朝敵 とされた。全国に捕縛の命が伝わると難を逃れ再び藤原秀衡を頼った。しかし、秀衡の死後、頼朝の追及を受けた当主・ 藤原泰衡 に攻められ、現在の 岩手県 平泉町 にある 衣川館 で自刃した。.

平安時代 末期 - 鎌倉時代 初期. 現在では後年の研究の結果や、チンギス・カンのおおよその生年も父親の名前も「元朝秘史」などからはっきりと判っていることから、 源義経=チンギス・カン説は学術的には完全に否定された説である 。.

[30] 11. 225 .


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