ヴィクトール・ フランクル 妻

発行者: 31.08.2020

山田:  ボヤッと歩いている。ボヤッとぶらぶらと。無心にと言えば聞こえはいいんですけど、実際はボヤッとぶらぶらと歩いているんですけど。そういう時に、例えば竹の葉が風にそよいだりします。そうすると、そっち側の方を見ますから、そうすると竹が風を送ってくる。その風を私が吸って、そして吐き出した息を竹が吸う、という。竹と自分とが繋がっているという。そんなことがずっと宇宙いっぱいに重々無尽に繋がっていく、というふうなことを、たまに考えたりもした。だけど普通はボヤッとして歩いているんですけど。. 山田:  フランクルの言葉で申しますと、「裸の実存」ということを言っていますんですけども、我々は一切合切何もかも身ぐるみ離れて、地位も名誉も奪われて、そして裸のまま丸ごと放り出されてしまっているという。これ実際ナチスの強制収容所に収容された時、そういう状態になるわけなんですけど、あたかも今度の震災のあの状況を見ていました時に、もう愛する家族も、仕事場も、持っている財産も、すべて津波に流されてしまって、やはり「裸の実存」という感じは致しますですね。もうちょっと申しますと、フランクルが強制収容所から解放された翌年、一九四六年、当時のウィーン市民に向かっ て講演を行うんですね。一九四六年というのは、広島と長崎に原爆が落ちたその翌年ということですね。その講演が「それでも人生にイエスと言う」これなんですけれども、この中でその時代状況について、フランクルがこういうふうなことを言っています。.

哲学者  山 田 やまだ  邦 男 くにお. このページは Cookie(クッキー)を利用しています。 Cookie はホームページのユーザー体験や質を向上することに役立ちます。閲覧を続けることで、このホームページの Cookie ポリシーに同意したことになります。 詳細は こちら OK. みすず書房 フランクルセレクション 『夜と霧』において、ナチスの強制収容所体験を精神科医の眼で記した著者が、大戦前後の社会と心理療法の関係を語る。ウィーンのラジオで放送された26講演。 「無意識の精神性の発見によってエス(無意識)の背後に自我(精神)が見出されたのであるが、今や無意識の宗教性の発見によって内在的自我のさらに背後に超越的汝が見出されたわけである。つまり自我が「無意識でもあるもの」であることがわかり、無意識が「精神的でもあるもの」であることがわかった上に、さらにこの精神的無意識が「超越的でもあるもの」として開示されたわけである。」(本文より)〉 精神医学と宗教は、どのような関係を持ちうるのであろうか。無意識が内在する宗教性を、人間の実存を解明する鍵として考察し、精神療法への応用を志向する。講演集「ロゴスと実存」を併収。.

山田:  そうなんですね。最初の奥様はティリーという方で、この方は強制収容所で亡くなったんですけども、フランクルさんが解放されて、後に娶られたエリーさんという方ですね。非常に愛想の良い陽気な方ですね。. 山田:  そうなんですね。最初の奥様はティリーという方で、この方は強制収容所で亡くなったんですけども、フランクルさんが解放されて、後に娶られたエリーさんという方ですね。非常に愛想の良い陽気な方ですね。. 山田:  フランクルの言葉で申しますと、「裸の実存」ということを言っていますんですけども、我々は一切合切何もかも身ぐるみ離れて、地位も名誉も奪われて、そして裸のまま丸ごと放り出されてしまっているという。これ実際ナチスの強制収容所に収容された時、そういう状態になるわけなんですけど、あたかも今度の震災のあの状況を見ていました時に、もう愛する家族も、仕事場も、持っている財産も、すべて津波に流されてしまって、やはり「裸の実存」という感じは致しますですね。もうちょっと申しますと、フランクルが強制収容所から解放された翌年、一九四六年、当時のウィーン市民に向かっ て講演を行うんですね。一九四六年というのは、広島と長崎に原爆が落ちたその翌年ということですね。その講演が「それでも人生にイエスと言う」これなんですけれども、この中でその時代状況について、フランクルがこういうふうなことを言っています。.

きき手:  フランクルの考え方は、おっしゃったようにほんとにニヒリズムを越えている、そういう深いものなのか、どうなのかをずっと追ってこられたというわけですか。.

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  • 山田:  先生が眼を病んでおられて、ほぼ失明状態だったんですけど。フラッシュが眼に悪いということを伺っていましたので、ちょっとそのことを申したんです。そうしましたら先生が、「いや、大丈夫だ。フラッシュが光るその寸前にパッと顔を横に向けるから」とこうおっしゃったんですね。それがこういう感じなんですね。. ナレーター:  山田さんは、しばしば散歩に出掛けます。禅の修行にも取り組み、竹林で作務 さむ を行っていた山田さんにとって、竹林は馴染み深い場所です。.
  • 山田:  これ(写真)二枚ございますんですけどね。.

ナチスと第二次世界大戦

山田:  そうなんですね。最初の奥様はティリーという方で、この方は強制収容所で亡くなったんですけども、フランクルさんが解放されて、後に娶られたエリーさんという方ですね。非常に愛想の良い陽気な方ですね。. きき手:  何かお話を伺っていて、そういうふうに視点を変えてみることの大事さがわかる一方で、向こうからの問い掛けなり、呼び掛けてくる人なり、相手とのために生きるというところは、何か自己犠牲的に生きるということと近いのかなという気がしてしまうんですけど。.

山田:  それはまさに同じことでして、そうしてくれたことによって、我々はこの本を通して、本当のフランクルに接することができる、というふうにも言えると思うんですよね。ですからフランクルが、我を忘れて原稿の執筆に専心したと。そのことの中に本当のフランクルが現れている。. 春秋社 人間とは何か ナチスによる強制収容所の体験として全世界に衝撃を与えた『夜と霧』の著者が、その体験と思索を踏まえてすべての悩める人に「人生を肯定する」ことを訴えた感動の講演集。. 次の地域は送料無料: 全ての地域を表示 詳細を閉じる.

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クリスチャントゥデイからのお願い

山田:  これ(写真)二枚ございますんですけどね。. 夜と霧、それでも人生にイエスと言う、などの世界的ベストセラーで知られるフランクルは、3・11以降、多くの読者を獲得し注目を浴びている。 極限状況を生き抜いた体験から語られる言葉は困難に直面する人々にとって大きな励ましとなり、彼が編み出した実存分析とロゴセラピーは得難い救いとなってきた。 いまだ収束しない原発事故の波紋のみならず、出口の見えない不況と「生きづらさ」に直面する若者たち、極度に高い自殺者率など、先行き不安を抱えた日本社会において、いま再び脚光を浴びるフランクルの今日的意義を掘り下げる。 年3月、NHK Eテレ「分de名著」ヴィクトール・フランクル「夜と霧」の再々放送決定!

哲学者  山 田 やまだ  邦 男 くにお.

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夜と霧、それでも人生にイエスと言う、などの世界的ベストセラーで知られるフランクルは、3・11以降、多くの読者を獲得し注目を浴びている。 極限状況を生き抜いた体験から語られる言葉は困難に直面する人々にとって大きな励ましとなり、彼が編み出した実存分析とロゴセラピーは得難い救いとなってきた。 いまだ収束しない原発事故の波紋のみならず、出口の見えない不況と「生きづらさ」に直面する若者たち、極度に高い自殺者率など、先行き不安を抱えた日本社会において、いま再び脚光を浴びるフランクルの今日的意義を掘り下げる。 年3月、NHK Eテレ「分de名著」ヴィクトール・フランクル「夜と霧」の再々放送決定!

山田:  死んだらどこへいくんだろう。そして死の恐怖というのはありました。これはあまりどなたにも申し上げていないことですけど、例えば夜中にフッと蒲団の上へ起き上がって、ゾッとするという、死の恐怖でね。死ということが絶えず気になっていた。そして私は、教育学部に入りましたんですけど、ゆくゆくは教育哲学の専攻で身を立てていこうと思っていたんですが、教育哲学の最大のテーマは、教育の目的は何か、ということなんですね。それを研究すると。それで一方では、死ということがありましたものですから、人間は何のために生きるのか、と。教育の目的ということを、根本から考えるとすると、人生は何のためにあるのかと。人間は何のために生きるのかと。死んだらすべて終わりじゃないかと。そうすると、どんな教育目的を立てたって、それは根拠のないものであると。そのことが気になって、教育目的論、教育哲学のようなことを本当にやろうとしますと、その死の問題を克服しないといけない。つまりニヒリズム(虚無主義)というものですね。先ほどちょっと申しましたニヒリズムというものを、本当に乗り越えないことには、自分の専門である教育哲学も成り立たないな、ということですね。その問題が大体大学院頃から、学部を卒業して大学院という、その頃から起こってきまして、それでその時にフランクルさんを呼びまして、最初『夜と霧』を読んだんですけども、「人生には無条件に意味があるんだ」ということを、人生には無条件になるんだと。これはニヒリズムの完全な裏返しと言いますか、否定なんですよね。人生肯定論ですね。それを非常にはっきり主張していて、おそらく宗教者は別にしまして、哲学者でフランクルほど、それほどはっきり人生を肯定した人物は多分他にいない。それぐらいに特異な存在だったんですね。フランクルさんを支えにしたということがあるんですけれども、他方ではちょっと甘いんじゃないかという疑問も持っていたんですよ。.

山田:  そうなんですね。最初の奥様はティリーという方で、この方は強制収容所で亡くなったんですけども、フランクルさんが解放されて、後に娶られたエリーさんという方ですね。非常に愛想の良い陽気な方ですね。.

ほんと、もっと、あそびたい

夜と霧、それでも人生にイエスと言う、などの世界的ベストセラーで知られるフランクルは、3・11以降、多くの読者を獲得し注目を浴びている。 極限状況を生き抜いた体験から語られる言葉は困難に直面する人々にとって大きな励ましとなり、彼が編み出した実存分析とロゴセラピーは得難い救いとなってきた。 いまだ収束しない原発事故の波紋のみならず、出口の見えない不況と「生きづらさ」に直面する若者たち、極度に高い自殺者率など、先行き不安を抱えた日本社会において、いま再び脚光を浴びるフランクルの今日的意義を掘り下げる。 年3月、NHK Eテレ「分de名著」ヴィクトール・フランクル「夜と霧」の再々放送決定! 山田:  フランクルの言葉で申しますと、「裸の実存」ということを言っていますんですけども、我々は一切合切何もかも身ぐるみ離れて、地位も名誉も奪われて、そして裸のまま丸ごと放り出されてしまっているという。これ実際ナチスの強制収容所に収容された時、そういう状態になるわけなんですけど、あたかも今度の震災のあの状況を見ていました時に、もう愛する家族も、仕事場も、持っている財産も、すべて津波に流されてしまって、やはり「裸の実存」という感じは致しますですね。もうちょっと申しますと、フランクルが強制収容所から解放された翌年、一九四六年、当時のウィーン市民に向かっ て講演を行うんですね。一九四六年というのは、広島と長崎に原爆が落ちたその翌年ということですね。その講演が「それでも人生にイエスと言う」これなんですけれども、この中でその時代状況について、フランクルがこういうふうなことを言っています。.

と、まあこういうふうなことをいうんですよね。そして実際に今度の福島の原子力発電所ですね。原爆でなくて原発ですよね。こっち側もベルトダウンしたというふうなことです よね。これがいつ、特に日本列島の場合には、大地震が起こるかもわからない。これはかなり現実的な恐怖感というものを我々日々抱いていると思うんですよね。私は、極限状況という点では強制収容所とよく似た状況ではないかと思いましてね。そういう状況の中で多くの人々が、自分にはもう生きている望みも何もないということで、自ら命を絶っていくという。高圧電流が強制収容所の周りに張り巡らしてあって、それに触れると感電して即死すると。そういう人たちも多く出たと言われています。フランクルは、年来強制収容所に入れられる前から、「どんなことがあっても人生には生きる意味があるのだ。どんな苦しみの中にあっても意味があるのだ」ということを、ずっと考えてきた人ですので、まさにその現場に直面したわけですね。おそらくフランクル自身ですね、ここで自分が今まで考え、主張してきたことが試されているのだと。十字架の試練に遭ってるのだという、自覚を持っていたと思いますね。実際に彼は精神科医でもありましたので、そういう絶望状態にある人たちに励ましの言葉をかけていたわけですね。ちょっとそこのところを読んでみたいと思います。これは『夜と霧』の霜山徳爾 しもやまとくじ さんの訳で申しますと、.

山田:  近いと。ですからこれだと私も共感できると。これ見つけた時は嬉しかったです。現代のニヒリズムの時代において、そういう共通の根底を見出すということは、一番根本の重要な問題ではないかと。それと同時に、何よりも私自身がそれを見つけないと落ち着けないんですよ、私自身が。ですから私はフランクルとか、西田とか、禅とかね、ちょっとずつ囓っていますけど、何故そんなことをやっているか、と申しますと、私自身がどこで安心 あんじん できるのか、というその問題なんですね。.

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コメント
Sorano 02.09.2020 09:30 答える

山田:  そうなんですね。当初私が気が付かなかったようなフランクル思想の深さというものが、その京都学派の思想を平行して調べているうちに、フランクルの思想も実は非常に深いものがあって、禅とか京都学派が言っていることと、非常にほとんど酷似しているというふうな、そういうところまで接近してきたんですね。それはもう比較的最近のことなんですけど。. 山田:  近いと。ですからこれだと私も共感できると。これ見つけた時は嬉しかったです。現代のニヒリズムの時代において、そういう共通の根底を見出すということは、一番根本の重要な問題ではないかと。それと同時に、何よりも私自身がそれを見つけないと落ち着けないんですよ、私自身が。ですから私はフランクルとか、西田とか、禅とかね、ちょっとずつ囓っていますけど、何故そんなことをやっているか、と申しますと、私自身がどこで安心 あんじん できるのか、というその問題なんですね。.

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